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アンジェイ・テンチャル
ポズナン、1990年4月22日
*「ファラオと奴隷」
- 本日聖ペトロの手紙一を読んだ際に学んだ:「信じることで、あなたたちの信仰の目標、あなたたちの魂の救済を達した時、あなたたちは喜びに満たされる...」
- 昨日のテレビ放送では、教皇聖下ヨハネ・パウロ二世のチェコスロバキアへの巡礼の中で、修道女、純朴な人々、他の人々の群衆が映し出された...
- 彼らはまるで神であるかのように教皇を見つめていた。- それはやりすぎではないか?...。
主 - 天と地と人の神は「地上で」自らのバリアントを展開する。
- 時々 - テレビには群衆が見えるが - 人が希望と目的を失ったとき、その人はボレスラフ・プルス作「ファラオ」の農奴の様に行動し得る。- 何年もの仕事の末に彼が掘った灌漑用水路がほとんど完成しようとしており、その成果により「自由民」の称号を得ることになっていたのだが、兵士たちが前進をする為にラメセスの命令で用水路を埋めた時、彼は首を吊ったのだ...
- 聖職者は、神の御心を行うための最初のしもべである。神の思し召しと命令をである。「地上で」の教会に対するこれらの要用と命令、その数百万の...
- 教会は「そもそも」福音を宣べ伝えるように召されているからである:貧しい心に、貧者に、苦しむ者に、単純な者に...
- この数百万、この量はなんだ?- これは顕在化である。これらは客観的に存在しているのか?主の知的能力の巨大さ、人々の数と科学と芸術の成果とそれらの絡み「合い」に表れた主の知的潜在能力...
- 哲学の中には「自己自身」の不可侵という概念がある。
- 「魔女」の火刑、宗教戦争、虐殺(「サン・バルテルミの虐殺」など)、「我々」の世紀の出来事が起こったのは、知識がないからであり、想像力がないからだろう。
- 無知から、知識不足から、無理解から、しかし神の思し召し。
尼僧は枢機卿ではない...。
- そもそもどんな人も「アルファとオメガ」ではない...。
- そして主の元にあるバリアントの多様性は絶大である
- これが神...
- だからこそ、ポーランドの国民文化を引き合いに出しつつ、誰かが違うからといって、その人の行動が我々のそれとは合わないからといって、その人が違うからといって、殺すのではなく、寛容になろうではないか...
- 恐らく地上のすべてのバリアントは神からのものであり、神の元にある。神の理性と認識の中で。
- その数は無量である、それが神だからである。
- チャールズ・ダーウィンは「我々の神は怠惰な神ではなかった」と言った...。
- もし「地上の現実」が神の理性と認識の中にあるならば、神は殺す権利を持っている、例えば強制収容所において。これらはただの創作物、知性の傑作であり、まるで「硬さを持ったイメージ」であるようなものである。神の自己の中で。
- ただ、苦しみはどうすれば良いものか...
アンジェイ・ユゼフ・ヤン・テンチャル
*ソビエト社会主義共和国連邦ミハイル・セルゲイヴィチ・ゴルバチョフ書記長への書簡を基にした文章。
アンジェイ・テンチャル
ポズナン、1991年12月29日。
「誰?- 何?- 神だ」
神を「自分の」中にイメージすることに問題が「発生」した。
神はヒゲを生やした老人で - 地球をその手に持っているのか?
- 神は人間の様なものなのか?
この見方では - 読者樣も「私の」作品の中でお読みになったかもしれないが -「地上の現実」が認識と理性の中で展開「される」、すなわち神の中で、あるいは神の元では、文明は、自己思考もしくは自己認識の中に存在する儚いものであると言うことを知ることで、神は人間の様なものではなくなる。
地上での概念と定義は意識的なあるいは客観的な、そして神にとっては客観的かつ主観的な真理もしくは事実であり、神の与する所ではないとすれば、以下の構造が基礎となる。仮説命題:それが起こるならば、これが続いて起こる(理化学、自然科学)...
「人の元で」についての定義は、例えば愛たる地上での形、色彩、音楽、現象といった美の感覚やイメージの様に神からもたらされるものである...
- したがって、イメージや信念は、神から与えられている。この見方では、現代物理にしたがって、磁場や電磁界、電流、生体電位は有形である。
私は人間は「魂」が与えられていると教えられた。過去には、「人間の」思考は精神的なものであると信じられていた。そしてここ現代科学の中、物理学、化学、生物学においてはほとんどすべてのものが測定され、記録され、数式や数字によって表現されることができ、「人間」の思考は、例えば電解質の濃度が異なる領域間の電位差によって流れる生体電流であり、大小様々な大きさを持つ生体電流で、測定可能であり、記録可能である。しかし、意識という現象やはり残っている...
私たちは、物理学だけでなく、化学や生物学からも、導体内の交流磁場が電流を誘導することを知っている(電流は通常、電子の流れであり、移動している)。私たちは、物質、例えばガスや素粒子で満たされた構造内では、内部エネルギーが増加すると、粒子の動きの速度が増加することを知っている。例えば、ガスを加熱するとその温度が上昇し、粒子がより速い動きをする。それらは振動し、衝突し、容器の壁の圧力が増加する...構造内の温度が上がると内部エネルギー、粒子の移動速度、圧力、化学反応の速度も上昇する...。
気温は生体に大きな影響を与える...。
- 神のイメージはどうなるのか?
上記の事実や他の事実に基づいて、イメージというのは、時空間内もしくは「どこにおいても」、自己思考もしくは自己認識の事実が先験的に現れるということである。
- 自然科学を利用すると、神が構築されている物質の物理・物質的な事実を理解しやすくなる...
- しかし、それはそれが神からのものであることに留意すべきである。- 定義に基づき、我々は何を物理・物質な物質と呼び、何を精神的なものと呼ぶかを知っている。定義にも基づき、何かを名付けることや定義することより重要なのは、存在や何かの発現、例えば意識(認識と理性)の存在や発現の事実でありそうだ。- 神に対しても同様である。
さらに、すでに書かれている様に、認識という現象が存在するが、生物学の中で、物理・化学・生物的プロセスが生物の中でどの様に認識へと変化「して」いくのかはわからない。
- もしも神の元では認識の事実のみが可能であるなら、物理分析や化学分析とは違って、認識と理性における論理分析のみが可能であるなら、主にとっても「一つ目の事項」は覆われたままになるのかもしれない。
アンジェイ・ユゼフ・ヤン・テンチャル