Prawda a prawda... (Japanese version)
アンジェイ・テンチャル
ポズナン、1991年8月3日
「真理そして真理」
- 客観的真理の「地上の現実」では - 「人のために」ではおそらく十分ではない。確かな客観的真理は神の存在という事実である。
- 「主について」という詩や「古きプラトン...」という散文の内容で参照すると、神は人間にいわば依存せずに存在できる、つまり人なしでの神は考えうるということを示すことができる。
おそらく客観的真理とは主の思考能力 - 思考の過程もしくは(主の中の)認識状態の必然性であろう。神との関係における客観的であり同時に主観的な真理は、例えば、主の特質であるように思われる:例えばイデアや概念を、主の中の自我、つまり「地上の現実」が「展開されている」場所に「設置される」像やイメージの概念へと転換し、投影する能力であり事実である。
同様に、このカテゴリーには「主の精神」が赤い色 - 戦争、虐殺、外科手術、女性の生理学に対する親和性がある事実を入れ込むことができるかもしれない
- 聖書ではしばしば何かが主に嘉せられると書かれている。芸術的な体験の全貌は、例えば「契約の箱」を作るときなどに表されている - それは美しさであり、芸術であると同時に、職人芸、つまり箱の細部を作る技術である。
- 「ファラオと奴隷」このように書かれている: 「主の知的能力の巨大さ、人々の数と科学と芸術の成果とそれらの絡み合いに表れた主の知的潜在能力...」
- これまでは主に芸術についてであった(書いてきた)。しかし、数学、物理学、技術という上記のように芸術と絡み合う別の分野、例えば化学もある。数学を使った理科学では - 数式 - 数学的に記述される反復する規則性 - によって「物理現象」を把握する。「物理学の最も冷たい領域」、例えばピーター・デバイの比熱式に始まって、星やクェーサーの領域、「プランク定数」や「溶解度積」(例:HgS)の大きさ、天文学的距離(数十億光年)に至るまで。そして最小・最大の数は存在しないこと、「1」大きいもしくは小さい数を作ることを考えることは可能であるから(「0」という数字の左に)、ということまで 、疲れるほどの範囲である。
- 面白い学問は化学であり、そこでは物質の「特性」が例えば化学化合物の色による古典的な定性分析で繋がっていて、例えばチオシアン酸鉄Fe(SCN)3、チオシアン塩酸、Fe+3、硫化スズ、アンチモン、ビスマス(色)が結合し、これが数式で表される...(原子構造の数学モデル、化学反応式、立体視と固体構造 - 特性も、である)。
- コンピュータの助けを借りて原子核の現象や例えば "パイオニア "などのロケットや月に行ったアームストロングなどの有人宇宙船の軌道計算の数学モデルが作「られる」。
- 「芸術の成果とそれらの絡み合い」...主の中で、である。
「 認 知 」 に基づいた古典的な科学は医学である。
- 古典的な方法論は対症療法だが、とにかく、装置やコンピュータ(トモグラフィー、エコー、心電図など)を利用してそれら全てが 認 識 に達する(私は人間の認識と考える)。最終的には、ある状態がまさにそれであると、芸術(医療的な)と一致して正しいと確約する、もしくは断言する認識の状態を主が作り出す。しかしそれがすべてではなく、例えば精神医学では、いわゆる副作用、さらには奇跡が起こる。
真理は学問の一分野である法学にも発出する。2人または3人の証人の証言が、以前に起こった事実と一致している場合、私たちは彼らが真理を語っていると言う。
主の思案もしくは 認 識 分 析 に基づく科学的慣例は「地上の命」としての自我の中で現れる。それは直ぐに誕生したわけではなかった。少なくとも6千年、その大きさ、量、多様性、縺れ(絡み合い)のため、多くの人々に「とって」も、人々の「中で」も自明ではなかった。
- 「地上の命」は主の元で「上から」準備されていることがほとんどで、おそらく「ここ地上」ではすべて100%のアプリオリであることがわかる。この命題は全能を表現する試みの中でも証明される。
- であるから、心理の問題について私はこのように考える
- 客観的真理と主観的真理がある。
- 客観的とは、部分的に主の存在と特質に関わるものである。
- 主の特性と「地上の現実」、上述した地上の命や主に創造された科学的慣習に関わるものは主観的真理であり、次のような構造を基本とする - 命題:それが起こるならば、これが続いて起こる。
- 科学、芸術、技術、命の全ての分野には、主により、主の元で事前に準備された、そしてそれによって「導かれる」、「それぞれの」アルカナがある。
- もしも人が(長い間)苦しんでいないなら、聖アウグスティヌスのように、主の業を敬仰することができる。
- しかし、それは主が常に存在していたか、 思考の過程または、偉大なあるいは主の自己認識が常に存在していたか、もしくは始まりがあったのかどうかは分からないと言うことがわかる。
正である命題はイマヌエル・カントの言う「発展が起こる...」であろう。
アンジェイ・ユゼフ・ヤン・テンチャル
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